場所性を超える作品
──《ファット・ハウス》《ファット・カー》を冬に拝見しましたが、雪が降り積もっていたことで、周囲の家や車が作品と同様に「太って」いて、作品と周囲の環境とが呼応している印象を受けました。これは作家としては想定外のことかもしれませんが、十和田という雪の多い土地だから起こり得たことです。このように作品が環境から影響を受けることを、ヴルムさんはどれくらい意識していますか。
多くのアーティストは様々な土地で作品を発表するとき、その土地特有の環境を考慮して作品をつくると思うのですが、私にはその意識がまったくありません。どちらかというと、同じ作品を異なる空間や場所に置くことで、作品が変容していくことを重視します。
興味深いのは、やはり環境や文化が異なると作品の見え方も意味も変わってくること。十和田の作品も、おっしゃる通り雪が積もれば意味性が変わってくる。それは私にとってはすごく好ましい状況で、作品の意図すら変わってしまうことをおもしろいと思っています。

《ファット・カー》はアメリカをはじめ、世界の様々なところで展示しています。例えばイギリスのヨークシャー彫刻公園での個展では、太っている人たちに対しての侮辱になるからという理由で、展示できなかったりもしましたね。まさに不条理で馬鹿馬鹿しいことではあるのですが、社会によって作品の意味そのものが変わることは興味深いと考えています。
──今回の展示では、オーストリアで見られる一般的な学校を細長く歪めた作品《学校》(2024/25)を展示しています。内部の机や椅子も建物と同様に圧縮されており、壁には日本の子供たちが実際に目にしていたと思われる印刷物の複製が貼られています。なかには国威発揚のためのメッセージを記したものもありました。同作はオーストリアでも展示を行い、その際に内部に貼られていたのはオーストリアの子供が目にしていた掲示物だったとのことですが、これはオーストリアと日本という、1940年代に枢軸国であり、そして敗戦した二国の歴史の類似点を意識したものなのでしょうか。
《学校》は知識の生成や、知識そのものに焦点を当てた作品です。歴史というものが結局どう語られるか、それは時代によって違います。真実と思われているものも、やはり時間とともに変わっていく。

私は1950年代のオーストリアで生まれ育ちましたが、当時学んだ知識のなかには、現代においては間違っているものも多いです。それはポリティカルな意味だけではなく、本当に科学的な知識レベルで間違っているものもありました。こうして、間違った知識によって提示されるユートピア像が、時間とともにディストピアになっていくということがずっと繰り返されているわけです。なので、私がいま確信を持って言えるのは、子供たちが現在学んでいることも、50年後、100年後には間違った内容になる可能性が高いということでしょう。

だから《学校》を鑑賞される方には、ぜひ内部に入っていただきたいと思っています。内部の掲示物はナショナリズムや国粋主義についても扱っていますが、それを批判したいというだけではない。私が言いたいのはもっと根源的なことで、私たちは皆、ある時代における、ある社会の生産物でしかないということです。それはいつも意識しなければいけません。私たちが現実だと思い込んでいるものは、まったくリアルではなくて、ある時代の、ある見方でしかないのです。