「家庭」を超えた先にある女性たちの「創造的表現」
近代の日本において「手芸」は女性の美的な生活管理の一環という位置づけであり、すべての女性がその担い手になることをめざす教育がなされていたという。宮脇がこのような戦前の手芸文化のなかで少女期を過ごしたことは、彼女がアプリケを表現手法として選んだことに大きな影響を与えているに違いない。そしてそのような規範的な環境にありながらも、手芸技術に自分自身が持っているより大きな可能性を見つけ出したのだろう。その契機となったのは、戦争だった。
「戦争が終わったということは、私にとって空襲からの解放でした。防空壕へ出たり入ったりしなくなった、その時間で何か“仕事”をしなくては……。そう思いましてね」
確かに先生は“仕事”という言葉をいくらか声高にはっきり念を入れて話されました。「どんなお仕事に就かれたのでしょうか」
「あら、アプリケというか、つまり裂地(きれじ)で何か作ろうと思ったんですよ」
私は息をのみました。昭和六十一年の初冬、名古屋のお宅へお伺いした日の驚きは、先生の“仕事”という言葉の使われ方でした。(*3)
すべての国民が同じ方向を、同じものを見ることを強制されていた戦争の経験は、自分が見たものを自分の手で表現できるという喜びを強烈に意識させたに違いない。そして彼女がアプリケによる創作活動を「仕事」と語ったことは、戦前からの「手芸」の位置づけられ方への批評ともとらえられるのではないだろうか。宮脇は自身が手芸家と呼ばれることを好んでいなかったというが、それは手芸と認めてしまえば、女性の創造性を過小評価する家父長制に屈服してしまうことになると感じていたのかもしれない。
彼女が主宰を務めた「アプリケ綾の会」では、何よりもまず家庭を大切にして創作活動をするよう、会員に語りかけていたという。それは明確に家庭との線引きがなされ、家庭の外へと向かう自己の表現行為だったということだろう。だからこそ、彼女の作品は、近代と戦後を通じて同様に手芸をしてきた女性たちへのエンパワメントとして機能し、多くの人たちの心を掴んだのではないか。そのことは手芸が美術として扱われることよりも意義あることであると私は思うし、手芸でなければ成しえなかったことでもあると思う。
「もはや手芸の枠を超えた芸術だ」と称賛するときの、その「枠」は、いかにしてつくられたのか。手芸を美術史の言葉を用いて分析するという試み自体が間違っているとは決して思わないが、その際には手芸がいかにそこから疎外されてきたかをも含んだ歴史と、そこに働いていたジェンダーの視点を持って慎重に読み解いてゆくことが必要なのではないだろうか。それは、それほどまでに、私たちの社会や美術という概念を支配するジェンダー規範が根強いということの裏返しでもあり、決して手芸側の問題なのではなく「美術」の問題なのである。


*3──森南海子「宮脇綾子先生の“ 仕事” 」『アプリケ芸術50年 宮脇綾子遺作展』朝日新聞社、1997、10頁。