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キュレーションと公平さの狭間で。檜山真有評「(こどもの)絵が70年残ることについて」【2/3ページ】

 「(こどもの)絵が70年残ることについて」。何かが残ることは不思議なことでもないし、逆をいえば何も残らないことも不思議ではない。不思議なのは、残る/残さないことになんらかの意味を見出そうとする営為のことである。それは何かをある一定の期間、ひとつの空間に留めておき、タブラ・ラサにしてゆく展覧会のことでもあり、さらにいえば、何かを半永久的に残すミュージアムのことである。通常、ほとんどのものは70年も残らない。歴史は残ったものだけで編まれてゆきがちで、私たちは時代が残したものしか見ることができないので、時代がそのほとんどのものをじつはその場その場に手放してきていることを忘れがちである。

展示風景より 撮影=守屋友樹

 私たちがそのような展覧会やミュージアムの営為や制度に甘んじて、それらをアートだと認めているあいだに、溢れ出ては消えてゆく様々な人たちの夥しい「表現」の成果物たちを私たちは如何ともしがたいと思っている。なぜなら、会議に諮られて残される作品と、みずのき絵画教室時代からみずのき美術館が残し続けているような約1万点の作品、もっと言うなら、あなたの家にも眠っているかもしれない幼少期に描いた絵などは残される経緯がまったく異なるからだ。歴史に還元できない個人のプライベートな気持ちが込められた表現を他人が扱い、第三者に見せる合意も覚悟もお互いの間で承知されていない。それゆえに、「キュレーションを公平に拡張する」というプロジェクトにおいてこれまで招聘された保坂(*5)も藪前(*6)も自分たちの職場では公にしないであろうキュレーションをすることへのためらいを隠さないし、成相はそもそもこのためらいを前傾化させて、本展のテーマへ落とし込んだ。

  それは「障害とアート」というテーマの難しさだけではなく、主催者であるHAPSがあらかじめキュレーターのステートメントの上にプロジェクトのステートメントを掲げ、キュレーターを二重に拘束するからだ。テーマは「障害とアート」だけではない。「ミュージアムという作品の価値を決定するために様々な事柄を一旦固定化させる場所で働いている学芸員としてキュレーションを依頼されている彼ら・彼女ら」という枕詞を与えられながら、障害にもアートにもある一定の独自の定義づけを行い、自分の表現物ではなく、他人の表現物の上で自分の主張をなしてゆく。

*5──「でも、彼の作品を選べば選ぶほど、言葉を重ねれば重ねるほど、キュレーターとはなんて因果な商売なんだろう、と。元々それはわかっていたんですけれども、僕が絵を描くと全然下手なのに、数は見ているからとか、一応歴史がわかっているつもりだからとか、いろんな理由において作品をジャッジして、展覧会もさせていただいているわけなんですけれども、その傲慢さ、あるいは、実際のその基準のあやふやさが、改めて、彼を見ていると、あるいは彼の作品を評価しようとしていると、やっぱり……。」(p.34、展覧会図録「キュレーションを公平に拡張するvol.1 「私はなぜ古谷渉を選んだのか」」保坂の発言より抜粋、2023、一般社団法人HAPS)
*6──「アール・ブリュットについてのリサーチの初期において、私のなかにあった数々の戸惑いのなかで、最も大きなものは、作家の主体性にまつわるものであった。」(p.59、藪前知子「「君のための絵」を受け取るために」、展覧会図録「キュレーションを公平に拡張するvol.2 「君のための絵」」、2024、一般社団法人HAPS)

編集部

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