1921年に実業家でコレクターの松方幸次郎らを伴い、ジヴェルニーのアトリエを訪れた洋画家の和田英作が「睡蓮」の近作をして「色彩の交響曲」と評したところ、「その通り」だとモネが答えたという逸話が知られているように、モネの色彩表現は音楽に喩えられてきた。第4章は、「交響する色彩」。1908年頃から顕在化し始めた白内障の症状は、晩年の画家の色覚を少なからず変容させることになった。しかし、モネは1923年まで手術を拒み、絵具の色の表示やパレット上の場所に頼って制作を行うことがあったと言われている通り、色彩は自身の生命線だととらえていたのだろう。

死の間際まで続いた前章の大装飾画の制作と並行し、庭の池にかかる日本風の太鼓橋や枝垂れ柳、バラのアーチのある小道など複数の小型の連作を1918年から最晩年にかけて手がけたモネ。不確かな視覚に苦痛を訴えながら、衰えることのなかった制作衝動がこれらの作品を生み出したに違いない。画家のバイタリティが凄みとなって画面に立ち昇ってくるような作品が並ぶ。




エピローグに「さかさまの世界」と題して2点が展示されている。モネが大装飾画を構想する当初から意図していたのは、始まりも終わりもない無限の水の広がりに鑑賞者が包まれ、安らかに瞑想することができる空間だったという。森羅万象が一体となり、実際の木々や雲や花も、池に映る世界もが同一となるような世界を画家は夢見ていたのかもしれない。池に映る世界=さかさまの世界を描いたモネの、願望のようなものを感じさせる作品で展示が幕を閉じる。
