その後戦争が激化すると、猪熊をはじめとする新制作派協会のメンバーは神奈川県津久井郡に疎開することとなる。もともと、「生活のなかに美しいものがあること」(生活造型)を重視していた猪熊は、疎開先の村で建築家・山口文象らとともに「芸術家村」を構想。その後、高松で美術館設立の話が持ち上がった際には山口を推薦し、1949年に「高松美術館」が誕生した。

また、その同年には、新制作派協会内に建築部が新設された。「建築は大きなひとつの空間を占める芸術である」と関心を寄せた猪熊は、様々な建築家たちと協働。展示室の大部分では、この建築部のメンバーであった前川國男、丹下健三、谷口吉郎、吉村順三、池辺陽、岡田哲郎といった気鋭の建築家らや、のちに会員となった剣持勇などと、画家としての猪熊の協働の様子が、写真やスケッチ、書籍などといった膨大な資料から紐解かれている。




また、のちに猪熊の「心友」にもなるイサム・ノグチとの出会いや、ノグチが香川・牟礼町にアトリエを構えることとなったきっかけについても紹介されている。
