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単数的にして複数的な探究。中島水緒評「ヒルマ・アフ・クリント展」【4/4ページ】

4.

 「女性シリーズ」「男性シリーズ」のような、「神殿のための絵画」のなかでややマイナーに位置づけられるシリーズが果たす意味合いについては、まだ検討の余地がある。もしかしたら「女性シリーズ」「男性シリーズ」にはアフ・クリントなりの、自分以外の他者による霊的探究に対する連帯の意識、私淑的なレベルの敬意の表明もあったのかもしれない。このとき、「私」であることと「我々」であること、単数であることと複数であることは、必ずしも背反せずに重なり合う可能性をもつ。

 それにしても、なぜ、霊的探究に殉じる者(たち)の姿を外側から眺める(という体裁で描く)必要があったのか。ひとつの仮説として、アフ・クリントが自分(たち)の仕事を客観的に判断する編集者目線に立つことを望んだから、という理由が挙げられる。後年は「神殿のための絵画」全点をみずからの手でアーカイヴ化する「青の本」(制作年不詳)なる10点組の冊子も製作していたほどだから、アフ・クリントに自分の仕事を要所要所で点検・総括する姿勢があったのは確かである。こうした客観化のプロセスは、いわば「霊性から醒める」=「我に帰る」ための作業として考えられるだろう。あるいは、霊的探究に殉じる身体の外側に立つことが、また別のレベルの霊的探究を意味するのかもしれない。ふたたび「エクスタシス」の語を引けば、そのとき画家は、修道女/修道士たちの「外に立つ」者、すなわち身体から抜け出た彼・彼女らの魂を代理する存在になりうる。使命に没頭する一制作者と、全体を見通して客観的な判断を下す編集者。霊的探求のために「私」を投げ出す者と、それを傍らで眺める別レベルの霊的存在。いずれにも内と外を行き来する運動がある。そしておそらく、この内と外を行き来する運動こそが「神殿のための絵画」の重層的なシリーズ構成の核となっていると考えられるのだ。

「ヒルマ・アフ・クリント展」より。「青の本」(制作年不詳)の展示風景 撮影=三吉史高

 アフ・クリントは約10年にわたって「神殿のための絵画」の制作に従事したが、1908年から1912年の4年間、失明した母親の看護のために制作中断の時期を挟んだ。倦まず弛まず制作に励んだアフ・クリントにしては、ずいぶんと長い中断期間である。思い出されるのは、画家が「神殿のための絵画」に取り組む前に受けた最初の啓示の言葉だ――「汝、盲目と戦え」。自分ではなく母の身を襲った事態とはいえ、画家にとって光を失う「失明」とは、たとえば神の導きを失うといったような、宗教的な含意をもつ恐るべき事態だったのだろうか。だが、私的なエピソードを過剰に神秘化する深読みは禁物である。近年の研究は、アフ・クリントがこの頃、薔薇十字主義の思想に大きく影響を受けた「13人」なるグループで女性の同志たちと活動していたと伝えている(*13)。表向きには絵画制作を離れたとされる4年間は、決してネガティブなものではなく、アフ・クリント(たち)が高次の霊的存在によって外部から与えられた仕事を自分(たち)のものにする、能動的にして自発的な学びの段階、シフトチェンジの時期だったとは考えられないか。

 壮大なスケールを誇る「神殿のための絵画」の完成後、アフ・クリントはどちらかといえば個人の裁量が物を言うような、比較的小さめのキャンバスや紙の仕事を中心に展開していく。なかでも、図表(ダイヤグラム)とテキストで構成される「花、コケ、地衣類」(1919-20)は、アフ・クリントの感覚の鋭敏さを物語る独自の植物研究として、興味深い作例である(展覧会では映像による資料展示のみ)。霊媒や大人数のグループワークとは別の仕方による、目の前の事象の観察や自然との交感に由来する一連の仕事は、アフ・クリントが「自力で目を開いた」からこそ成し得た、きわめて単数的なレベルの宇宙の探求と位置づけられるだろう(*14)。

 最後に、ヒルマ・アフ・クリントという特異な画家の語りがたさについて少しだけふれておく。本稿では、アフ・クリントが「高次の霊的存在」に啓示を受けて制作に臨んだという「前提」をある程度受け入れたうえで話を進めてきた。しかし同時に、必ずしも多くの人には受け入れられないであろう、本来であれば他者と共有不可能な神秘体験をベースに作品を考察することの限界は、本稿を書くうえでつねにつきまとう問題だった。「霊的存在」なるものを織り込み済みとする作品分析については妥当性を問い、「前提」から見直すような別の語り方を模索するのが本来の批評の役目であるとも感じる。前提を見直す作業とは何か。ひとつにはまず、近代スピリチュアリズムの歴史的検証が挙げられるだろう。もしかしたら現代人もまた、高度に発達した情報環境──それは一種の霊的ネットワークである──にとり憑かれた存在なのかもしれないが、現代の文脈とは異なる思想潮流として、時代背景と併せた近代スピリチュアリズムの考察が今後の課題となってくるはずだ。

 作品が、というよりも、一群の作品の背後にある重層的な構造が「かくあるべし」と私たちに「語らせる」。構造が押しつけてくる方向づけからの脱却が可能かどうかは分からないが、それができたときに私たちはようやく「未来の鑑賞者」として、アフ・クリントの絵画の外側に立つことができるのだろう。

*13──港千尋『ヒルマ・アフ・クリント 色彩のスピリチュアリティ』(*3)、173頁。
*14──2025年5月より、アフ・クリントの植物研究に焦点を当てた展覧会がニューヨーク近代美術館で開催されている(2025年5月11日〜9月27日)。 Hilma af Klint : What stands behind the flowers https://www.moma.org/calendar/exhibitions/5779

編集部

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