大杉栄と一膳飯屋へちまのアナキズム
望月を語るうえで欠かせないのが、アナキズム運動のカリスマである大杉栄だ。谷中のへちまで出会った2人は、交流を通して互いの思想に関心を寄せ、後に共著を出版するほど信頼関係を築いた。その共働はやがて黒耀会として結実するが、大杉栄はどのような存在であり、アナキズムとはどんな思想だったのか、時代状況と絡めながら簡単に理解しておく必要がある。
日本でアナキズムがもっとも流行したのは大正時代だ。明治末、西洋思想として社会主義が輸入されると、中江兆民の弟子の幸徳秋水がその中心人物となり、アナキズムに接近。しかし、幸徳秋水は1910年の大逆事件によって天皇暗殺謀議のかどで処刑された。この大弾圧後、社会主義運動はいわゆる「冬の時代」を迎える。その閉塞した状況を打ち破ったのが幸徳の弟子の大杉栄だった。大正時代になって大杉は無政府主義者として躍動。伊藤野枝らと自由恋愛を実践しながら、世界を股にかけて労働運動を支援すべく奔走する。だが、最期は1923年9月、関東大震災直後の混乱の最中に憲兵隊によって虐殺。これを機に精神的な基盤を失ったアナキズム運動は衰退していった。
こうして破天荒な人生を駆け抜けた大杉は、自然と人が周囲に集まってくる魅力的な「気質」を持っていたそうだ。そんな彼の痕跡は本展にも散りばめられている。大杉の手による絵かき歌のような自画像《入獄前のO氏》(1919)や、望月の水彩画《ある日の大杉》(1920)。横江嘉純によるブロンズの《大杉栄像》(1924)は「眼の男」大杉の鋭い眼光を見事に掴んでいた。

提供=原爆の図 丸木美術館
そもそも、大杉が体現したとされるアナキズムは矛盾を孕んだ思想である。浅羽通明『アナーキズム』(筑摩書房、2004)によれば、アナキズムとは「権力を頂く組織も、代表も拒絶して、直接行動による反逆のみを方法とする」「自由の原理主義」だ。いっぽうで、国家も政府も財産制度もなく、個人が平和に連合し相互に扶助し合う「権力なき絶対自由のユートピア」を夢想する。ポイントは、アナキズムが社会主義や共産主義で必要悪とされる「反権力の権力」をも見逃さないこと。すべてを否定しながら理想を夢見る、このアンビバレントな「反逆とユートピア」の同居こそが、楽天的とすら言えるアナキズムの精神だった。
こうしたアナキズムの指向を結晶化した空間が、一膳飯屋へちまではなかったか。先述のように、へちまは大杉をはじめとする活動家や労働者など、多種多様な個の寄り合うアジールとして機能している。また、食器類に絵を彫ったり焼き付けたりと、自ら工夫して手がけたその食堂は、望月の表現行為が詰まった「作品」でもあった。いまから振り返れば、ゴードン・マッタ=クラークがアーティストたちと運営したレストラン《FOOD》(1971)に代表される、アーティスト・ラン・スペースやオルタナティブ・スペースの先駆けのようにも見える。望月にとって、「芸術即生活、生活即芸術」(有島武郎)を具現化したへちまは擬似的な「ユートピア」だったはずだ。もっと言えば、現実に存在した理想郷という意味でミシェル・フーコーの提唱する「ヘテロトピア(異在郷)」だと考えることもできる。
もちろん、「ユートピア」としてのへちまは「反逆」の拠点でもある。理不尽で強権的な政治に対する否定だけではない。後に「黒耀会宣言書」(1919)で「現代の社会に存在する芸術は、在る特殊の人々の専有物(…)此様なものは遠慮なく打破して吾々自主的なものを獲らねばならぬ」と掲げるように、それは権威的で閉塞的な芸術制度への批判だった。とはいえ注視すべきは、その「反逆」がテロや暴動というかたちではなく、店名の脱力感に象徴されるユーモアによって発揮されていたことだ。当時の広告文には「腹がへつてはどうもならん/先づ食ひ給へ飲みたまへ/腹がほんとに出来たなら/そこでしつかりやりたまへ」とあり、庶民に寄り添う望月の人情味あふれる人柄が伝わってくる。なにより望月は、ここで創出されたコミュニティをこそ大事にしていたのだろう。
このコレクティブを母体に、労働者のための絵画教室である平民美術協会、そして「芸術革命」であり「社会革命」としての黒耀会が結成され、4度ほど展覧会を開く。参加者の顔ぶれは、大杉栄、コミュニストの堺利彦、柳田國男の右腕だった橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊、そして小説家の島崎藤村や高村光太郎などバラエティに富んでいた。アンデパンダンである黒耀会展は「多ジャンルによる超クロッシングイベント」(松田修)(松田修、『公の時代』)だったのだ。
そのせいか、美術家ではない彼らが紙に墨で描いた「絵画」は、俳画や文人画を思わせる興味深い代物である。例えば宮崎安右衛門の《無銭王国》(1920)は、「ユートピア」的な貨幣制度の廃止を訴える立札と棒人間を気の抜けた線で描いた。ほかにも、アナキズムで「反逆」を意味する爆弾とドクロのモチーフを反復しつつ、基本的には落書きや寄せ書きなど「何でもあり」。美術作品に漫画風の絵柄を取り込んだのもいま思えばあまりに先駆的だ。
美術家のみならず、活動家や芸人などがジャンル横断的に結集した黒耀会。卯城が「いまわれわれがやっている日本の現代美術的な表現は(…)この黒耀会がスタートに見えるって言ってもおかしくなくない?」(『公の時代』)と言うように、この活動を日本の前衛の始祖と見立てることは可能だろう。事実、コンテンポラリー・アートのルーツとされる20世紀初頭のアヴァンギャルド運動において、ダダイズムはチューリヒのキャバレー、シュルレアリスムはパリのカフェが発祥。また未来派が『寄席宣言(ヴァラエティ・ショー)』(1913)で提示したように、それらの芸術運動を牽引してきたのは非美術家たる詩人・扇動家・芸人たちだった。翻って、一膳飯屋から誕生したグループ、そしてその最初の対外的活動が「パフォーマンス」だったことを鑑みても、黒耀会を日本現代美術の起源とする史観はオーセンティシティを宿している。