多元的でラディカルな現代アートのパイオニア
関東大震災が発生してから黒耀会周辺の状況は変化していく。震災後の混乱のなかで「社会主義者や朝鮮人が暴動を起こす」という流言蜚語が蔓延。大杉栄は虐殺され、望月は留置所に入れられた。
また、大杉虐殺の報復として陸軍大将への狙撃未遂事件を起こした望月の仲間である古田大次郎は絞首刑に、和田久太郎は無期懲役に処される。その翌年に理想大展覧会へ出品された《死の宣告》(1929)は、古田への弔いとして制作されたコラージュ作品だ。幾何学的に構成された画面の中に裁判の「傍聴券」が貼り付けられ、古田の人相や爆弾とドクロが配された、戦間期における望月作品の集大成だった。
1928年には和田が獄死する。それを受け、望月は安曇野の家の庭に和田の遺灰を播いて花を育て、押し花にして仲間に贈った。後のダダカンを想起させもする、《あの世からの花》と題されたその「鎮魂のメールアート」(足立元)(足立元『前衛の遺伝子』)は、やはり日本の前衛の特異点として歴史に刻まれるべきものだろう。
ことほどさように、へちま、アナキズム、平民美術協会、漫画、アンデパンダン、黒耀会、未来派、反機械主義、不敬作品……と、他に類を見ないほど多元的なアーティストだった望月桂。すべてにおいて早すぎたとすら思えるラディカルな「制作と運営」を実行した彼は、日本の現代アートのパイオニアのひとりであると言って過言ではない。

提供=原爆の図 丸木美術館