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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:流動体のように【2/4ページ】

 「小さい頃は、大人しくて人見知りの激しい子供でした。親父がお客さんの書いた願い事が溜まってくると、3ヶ月に一度くらい、日蓮宗総本山のある静岡県富士宮市の寺院へ奉納に行っていたんです。運転ができない親父の代わりに、母親が運転して、そこにいつも同乗していました。だから、幼少期の思い出といえば、東名高速道路のパーキングエリアなどの景色なんですよね」。

 中学に上がると、ニキビの増えてきた顔や多汗症をクラスメイトからあざ笑われるようになった。「人の目を気にしすぎて、廊下を歩いているときも俯いていたし、給食の時間も自分の口を見られるのが嫌で、汁物も飲めなくなっちゃいました」と懐かしむ。

 そんな彼が絵を描き始めたのは、幼少期の頃からだ。父親が毎日のように大学ノートを買ってきては、絵を描くよう勧めてくれた。高校卒業後は、印刷会社に勤務したが、8ヶ月ほど働いてみたものの、希望した仕事ではなかったため2007年1月に退職。そこから、10年に及ぶ長い引きこもり生活が始まった。

 同年10月には、身体を悪くした母親が他界した。残された父親は交通事故の後遺症が悪化し、やがて寝たきり状態となり、1年半ほど、C孛が父親の介護を請け負うことになった。その父親も2012年に亡くなり、孤独を感じ、ノイローゼ状態に陥ったという。「空のコーラのペットボトルが散乱した部屋の中で、ずっと絵を描いていました。電気も点けず真っ暗な室内で描いて、点灯したときに『こんな絵ができたんだ』と自分で驚くこともありました」と当時を振り返る。生活保護を受給しながら暮らす日々のなかで、一筋の光が射してきたのは、父の告別式で占い店の常連客が参列したときのことだ。

 「自分が絵を描いていることなどを説明したら、お世話になった父親へ恩返ししたいということで、その人がパソコンやプリンター、そして『音楽もやりなよ』と音楽をやるためのDTMセットなどを購入してくれました。家のリフォームまでしてくれて、とにかく御世話になりました」。

 デジタルデバイスを入手し、インターネットの大海を知ったことで、世界は一気に広がった。

編集部

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