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櫛野展正連載「アウトサイドの隣人たち」:流動体のように【4/4ページ】

 C孛によれば、暗い気分のときに描くことはないのだという。これまで、様々な病を抱えた人たちを取材してきたが、多くの人たちが調子の悪いときに、いわば「頓服代わり」に創作を行っていた。その点で、C孛は異なっている。ズボンから垂れ下がる紐と紐の間隔など、様々な「間(あいだ)」が気になってしまうという彼にとって、世の中が随分と生きにくいことは容易く推測される。目に見えるものすべてが彼にとっては情報過多であり、ともすれば注意を向けざるを得ない対象となってしまうのだろう。そうした場合において、絵を描くことは自身の感情をニュートラルな状態に戻す儀式なのではないかと僕は想像する。

 「例えば、描いてきた作品が燃えて消失してもなんとも思わないんですが、このメモだけは手放せないんです」と見せてくれたのは、これまで何十年も密かに描き続けてきたメモの束だった。親戚の集まりでも、誰かが喋ったことを一言も聞き逃すまいとメモし続けていたという彼は、頭の中に浮かんだ文章を絶えず書き続けているのだという。末尾が「目で見てる」「耳で見てる」「息で見てる」などの文体で終わる奇妙なメモの束に、僕はただ圧倒されてしまった。

 「絵の中に描いていたのも、ここに書いたメモの一部です。どんどんメモ帳に大切な言葉が溜まっていったときに、アウトプット先が見当たらなくなってしまったんです。だから、即興で短歌を詠むこともやっていたし、最近ではアウトプットの一環として、お笑いの舞台にも立っています」。

 そう考えると、C孛にとって、絵画や音楽、パフォーマンス、短歌、お笑いなどのあらゆる表現行為は、脳内にとめどなく入り込んでくる情報の渦を外界へ吐き出すための手段であり、創作するということは自身を正気に保っておくための術なのだろう。ノイズミュージックに傾倒するようになってからは、キャラクターの登場しない、より抽象化した絵画を描くようになるなど、その表現は柔軟に変化を続けている。音楽ライブでは両親の位牌とともにパフォーマンスを行うこともあり、C孛自身が、あの世とこの世を浮遊しているかのようだ。

 彼にとって、先行き不透明なこの世界をサヴァイブしていくことは、多くの困難さを伴うだろうが、ときにはキメラ的にその形態を変化させ、紙の上を滑るペンのように、即興的にすり抜けていく予感を僕は感じている。そして流動体のように、彼の表現も変わり続けていくのだろう。

編集部

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