第7章「1946年から48年:戦後の再生と異夢」と第8章「1949年ニューヨーク:すれ違う二人」は、藤田と国吉、ふたりが戦後歩んだ道を取り上げる。
戦後、藤田は戦時中の軍部への協力的態度から戦争責任をささやかれるようになる。そうした周囲の雑音から逃れるように、藤田は裸婦や幻想的な情景の制作を行うとともに、フランスへと機関する方法を探るようになっていった。

いっぽうの国吉は終戦後、旺盛な制作を行うようになり、48年にはホイットニー美術館での個展を開催。これは日本人画家の海外での評価事例として、画期的なものといってよいだろう。いっぽうで、戦後に完成させた名作《祭りは終わった》(1947)はどこか暗さがある絵であり、戦争のあとの国吉の安堵や虚しさを読み取ることもできるだろう。

1949年、藤田は希望どおり日本を離れ、フランスを目指す途上でアメリカに立ち寄り、ニューヨークで個展も行った。国吉はこのときの藤田の個展に足を運んだものの、再会することはなかったという。それでも、国吉が互いに置かれていた立場を超えて、同時代の画家として藤田への興味を失っていなかったことがよくわかる。

最後となる第9章「1950年から53年:藤田のフランス永住と国吉の死」では、国吉の最晩年、そして藤田がフランス国籍を取得した時期を扱う。戦後の藤田は宗教画に傾倒していき、晩年にはカトリックへと改修することになる。

国吉は1953年、アメリカ国籍取得の手続きの最中に世を去る。晩年の国吉の作品は、色鮮やかになっていくが、同時にその筆致や人物の表示からは、どこか不安を感じもする。歴史や時代に翻弄される人生の苦悩を味わった国吉の絵は、監修の林が「あと10年生きていたらどんな絵を描いたのか」と語るように、さらなる展開を予感させるものといえるだろう。

藤田と国吉と名打たれている本展であるが、むしろ国吉の作品の魅力を、藤田と並べることで再発見できる展覧会といえるだろう。林は本展を「太陽のような藤田の光によって、月のように国吉の絵画の新たな側面が発見された」と表現する。様々な画材を使用し、現代の絵画にも通じる重症的なマチエールを展開していた国吉の魅力を、藤田の名作の数々とともに知ることができる重要な展覧会だ。
